昭和48年04月23日 月次祭



 信心を頂く者の有難いと言う事は、信心によらなければ頂けないもの。それは御神徳であります。これは信心を頂かなければ、信心をさせて貰うとるというだけではいけん。信心を頂く事によって、誰しも御神徳が受けられると仰せられるのですから。是は信心をしなければ頂けない。ですからそれを具体的に申しますと、痛いのが治ったのが有難いのではない。何時もまめなのが有難いのぞと教えて下さる。
 私共には只々計り知る事の出来ない、天地の親神様の大きいお恵みというものが、限りなく頂いておるのですけれども。それが肉眼をもってのみ見るですから、その神様の深い御神意とかご深慮、思し召しが分からない。またはあれもおかげ、これもおかげと頂いておるのですけれども、あれもおかげだけれども、これはおかげではないと言った様な事の程度にしか分からない。
 信心をさせて頂いてあれもおかげである、これもおかげであると分からせて頂くところから、神恩報謝の生活が出来る。その神恩報謝の生活が生活の上に、信心修行の上に現れてくるというのがそこからが、金光様のご信心です。ところが中々そこまで至ることが出来ません。只おかげを受ける。只おかげを頂いた。あん時にはあぁいうおかげを頂いたと言う様なおかげで、一生終わってしまったんでは実に惜しい事である。
 一つ私共は今まで気が付かなかった事。もうてんでそれはおかげではないと思うておった事の中に、深い深い御神意、ご深慮があってのおかげであると言う事を、分からせてもらう悟らせて貰う。そこから今まで味合うたことの無い、ありがたいというものが汲めども尽きぬほどに、心の底から湧いてくる。そういうおかげに、尽きぬおかげが約束されるのでございます。
 金光様のご信心はどうでも、信心を頂かなければいけんのです。ですからどういう様なあり方にならせて頂いたら、そういう軌道に乗ることが出来るかというとです。今言うように、あれもおかげ是もおかげと分からせて貰うたらです。お礼参拝がさせて貰わなければおられない。もう是が一番だと思う。お礼参拝させて貰わなければおられないほどしの信心を、頂くと言う事であります。
 先ほど西岡先生が、学院での事を色々話しておる中に、幹三郎の事を話しておられました。幹三郎に始まって、幹三郎に終わったと言う様な、大袈裟ですけれどもそういう表現で話しておられます。信心の一番大事な所一番大切な所と言う様な所をです。極めよう分からせて頂こうとお互いが、一生懸命になっておる姿の事を話しておられました。学院でいわば教導を様々な、常識的な金光教常識的な宗教一般に渡って、色々勉強させられて、話を聞いてきた。ですからこれは常識では助からんのである。
 自分自身が本当に助かると言う事は、生神金光大神を頂くと言う事である。生神金光大神を頂くと言う事は、親先生の上に現れる生神金光大神を頂くと言う事であるというふうに、究明した所を話しておられます。ですから如何に親先生を頂くか、頂いておるか。またどういう信心すれば頂けるかと言う事が、一年間の純粋な信心の焦点であったと。また説かれる先生方も、そこの所に焦点を置いて御教導下さったというお話で御座いましたですね。信心の一番大事な所。
 それは教師を目指す者だけが、大事という事ではない。御道の信心させて頂いておる者の、全てが大事な所なのである。誰でもが大事な所である。あの人は金光様の先生にならっしゃるとじゃから、あんくらいの事を打ち込まにゃと言う事はない。お徳を受けたい、本当におかげを頂きたいと言うならば、その一番大事な所に、焦点を置いての信心の稽古で無からなければならない。先日から是はあらゆる宗教だと思うんですけれども。その宗教の生命といわれるもの。
 取分け仏教とりわけ、親鸞師匠ですね。いわゆる浄土真宗の、開祖である所の親鸞聖人が頂かれた信心を、まぁ詳しくは分りません。もうお書物で読む位の事ですから。けれども是は私先日朝の御祈念の時に、様々なお三宝の姿を頂いた。大小の色々な三宝を頂いた。どう言う事であろうかと思うておりましたら、御理解の中にも三宝という言葉が出てまいりますよね。三宝様踏むな三宝様踏むと目がつぶれる。三宝様とは穀物の意と、後の人が訳を書いております。穀物の意だと。
 成程私共も例えばご飯粒なんかが、下へ落ちておっても、それを踏んづけたりすると、足が額口に着くぞち言うて言いよった。皆さんも覚えがある。昔の方はそうでした。食物をお粗末にすると、額口に頭にですね足がつくぞと。いうなら三宝様をお粗末にすると目がつぶれるぞと言う様に、厳しく教えられて穀物の大事さと言う事を、まぁ教えられて参りました。今頃はそれが段々疎かになって来た様ですけれども。ですから三宝様と言うことを、穀物の意と書いてあるけれども。
 今日私が頂いたいやその日ですよ、その朝の御祈念の時に、三宝を頂いてまぁつらつら思わせて頂くのがです。仏教で言う、お釈迦様が説かれた教えの中に、仏教の生命は、この三宝にあるんだと説いておられる事です。三つの宝にあるんだと。それで私は思わせていただいた。成程是は金光様のご信心でも、この三宝が三つの宝というものが、生命だなと言うふうに思わせてもらうのです。勿論金光教の信心は、そこん所へ御取次ぎを頂いてと言う事になります。御取次ぎを頂いてその三宝を身に着けていく。
 その三宝というのは、お釈迦様が説かれる所の言葉をもってすると、仏法僧と言う事になる。仏と言う事は仏。法と言う事は則と言う事ですね。所謂教えと言う事。僧と言うのはあらゆる人間関係。取分け自分の信心を頂く、御道の信心で言うならば、今日、西岡先生が話しておりましたようにです。如何に親先生を頂くか、拝めるかと言う事なんです。如何に親先生がいただけ、親先生が本当に頂け拝めてくるようになると、自分の周囲のあらゆる人間関係が、素晴らしい事になってくるのです。
 あの人はあんな悪い人だと、人は言うけれどもあの人は、あぁいう素晴らしい良いものを持っておると、その人の神性その人の神の性の面だけが、いわゆる仏性の面だけが見えてくるようになると言うのである。如何にここに御結界に奉仕しておるからと言うて、そんな、生神さんごたるとばっかりはおらん。けれども仏性であり神性であり、神の性である、その所の面が見えてくる。
 例えば今度私が御本部参拝で、一番感動的な私の信心に受け止めてきたのは、今の四代金光様のご信心のご修行振りであります。そらぁお父様がです三代金光様が、あのように、七十年間という間を、一日のごとく勤め上げられて、始めの間は泣く泣く辛抱したと仰せられる。それが段々とおかげを頂かれて、思うことも無くなり欲しいものも無くなって、有難うて有難うてと、仰せられるほどしになり。しかもその有難いおかげの、お礼の足りないお詫びばかりをしておりますと言う様な所まで高められた方。
 如何にお父様がそうであったからと言うて、今の四代様が必ずしもそうであるとは言われないけれどもです。その親様のお後をひた受けに受けられて、きつい私と同じ糖尿病でおありになる。しかも目は糖尿病から来た、あの眼病だそうでありますから、もうおノートの字でもこの位にに大きく、お書きになると言う事であります。そしてめがねを掛けられても、やはりご不自由らしいんです。履物などお履きになる時には、こうして手で探られるそうです。と言うほどしにいわばご不自由な身体を持ってです。
 毎日御神勤が出来ておられる、私はお引けのお姿を拝んだ時にですね。それこそ幹三郎じゃないけれどもね、後姿を拝ませて貰うて、いやぁ金光様ご苦労様と思わずにはおれなかったです。私は今度の御本部参拝で一番の収穫は、これであったと。もうお身体全体にです。お疲れがありありと見えておる感じでした。それでもやはりそれこそ泣く泣く辛抱しておいでられるご姿を拝した時にです。
 そこを拝まなければおられなかったと言う事です。例えばここで一生懸命、御祈念をしたりお取次ぎをしたり、一生懸命眠たいけれども堪えて辛抱して座っておる、その先生の姿にです。尊いものが感じられると言う事。これが仏法僧である。そう言う事を学院で一年間、みんながあらゆる角度から取り組んできたけれどもです。早く帰って親先生の後姿を拝みたい。私は修行もあんまり好きではない。勉強もあんまり好きではない。けれども人が助かる事の為ならば、勉強もしよう修行もさせて頂こう。
 この辺の所がですね、私は一般信者の方達なんか、おろそかになる所のような感じがするんです。ただおかげば頂かんならんけん、毎朝参りよるとばのち言うごたるふうで。そるけんおかげ頂かんなら、スパッと止めると言う様な事に成って来るんです。人が助かる事の為と言う事はね。自分自身が助かる事の為と言う事なんです。自分が成長する。自分が力を頂くと言う事なんです。
 だから人の分まで、持ってあげれると言う事になるのです。力を頂く事の為に、言うなら真の信心を頂くと、今日私言ってますね。信心をするのじゃない。信心を頂くと言う事がです。自分に力を頂く光を頂くと言う事。真っ暗いトンネルの中の様な所を通っておった。世の中はもう是だと思い諦めておった所が、法のおかげ所謂御教えのおかげで、心に光が頂けれるようになった世界。
 そこに信心の有難い世界があるんだと。そんためには好かん修行もさせて貰おう。あんまり好きではない勉強もさせて貰おうと言う事なんです。早く帰って親先生の後姿が拝みたい。私は彼の事をどうこうと言う。まだ海のものとも山のものとも分かりませんけれどもです。そんなら二十日の日に帰らせて頂いて、二十一日の朝からもう三時半には私の出迎えやら、お供やらをさせて頂いておると言う事実なんです。
 今まで直子がおかげ頂いておったから、今姉妹二人で毎朝三時過ぎには出て参ります。そしていうなら、私の後姿を拝みながらです。毎朝三十分間控えで控えて、そして一緒に私の御祈念を頂いて、五時の若先生の御祈念を頂いて、御理解を頂いてと言う様な事が、その翌日から繰り返されておると言う事の事実なんです。たぁだ話を聞いて分かると言う様な事じゃないんです。
 金光様のご信心はそういう信心の、繰り返しの中からです。今まで気が付かなかった事の有難さが分かってくる。拝まなければおられない。いうなら三宝の第一に挙げてあるところの、仏法僧と言う仏なんです。これはもう拝まなければおられないのである。先ほど、西岡さんも言うておられたように、昼はまぁ言うならピンポンで遊び呆けておる。まだ十幾つかの彼が、夜ともなると繁々と、奥城にお参りをするんです。拝まなければおられない。信心は私それだと思うんです。
 拝まなければおられないもの。そういうものがです。これに育って来る事なんです。十分二十分三十分いや一時間も御祈念をさせて頂いておっても、立たれん程しに成って来ると言う所に、信心の独壇場がある。この仏が大事です。拝む事がざぁっとなって来る様な時には、愈々お互いが用心しなければいけない時なんであります。それから法です。それが、則の道と言われるですね。いわゆる教えと言う事である。御道の信心では、それを天地の道理と言う。
 その天地の道理、事訳を聞くと言う事は、もうこれで良いと言う事は決して無い。そらもう限りが無い事である。今日西岡先生宛に手紙が来ておる、その大変偉いもう六十幾つになられる、学院にお話に見えたりこの頃からお書物を書かれたり、もうそれこそ大変な難儀な所を通って、大学を出て。それから話を聞くと、この耶馬溪教師の資格を取ってね。本当に人が助かると言う事は、先ず自分が助かる事だと言うので、耶馬溪の裏山に何百メートルと言う、洞穴があるそうですね。
 そこには狸狼が、その当時は住んでおったと言う。そこへ十日間断食して、洞穴の中で修行したという変わった先生。あれは静岡でしたかどこでしたか、上田教会ね。その方が、私の事を書いた本を読まれたり、この頃から和賀心時代を読まれたりして、あれを、どうでも、月々先生がお話になる事の、印刷物が出来たら、あのお金は直ぐお送りするから、ぜひお送りしてくれと言うて、言うて来ておられます。
 そして和賀心時代を何回も何回も、繰り返し繰り返し読ませて頂いて、合楽の親先生の爪の垢だけでも頂きたい。こら褒め言葉に違いはありませんけれども。そういう褒め言葉を持って、合楽の信心を頂こうとなさっておられる先生があります。ですからそれほど徳を受けて、それほどおかげも頂いて、立派な教会をお持ちになって。言うなら学院の生徒には、教えをされるほどしの先生がです。なおかつまだ私共ぐらいな者の信心でも、頂きたいと言うやむにやまれぬ。
 そういう求道の心と精進されておられると言う事がです。それが御道の信心なんです。学者がめがねをかけて、本を読むようなものであろうぞいと。信心させて頂いて自分の信心の光が大きくなっていく。自分の力が段々、感じられて来る様に成る。それが有難いのである。それが楽しいのである。だからお礼参りはしなければおられんのであるという、参る、拝むという信心が出来てくる。そこに法の道と言うものはもう限りがない事である。それを愈々身に着けていく。
 それから僧である。親先生が拝むこら、親先生と言う事だけじゃない。もうあらゆる人間関係。これは自分自身が有難うなり、自分自身に力が頂けてくるのですから。いうなら、ここに藁人形が座っておっても、拝めれる事になるのです。家内が拝め子供が拝めれるようになるのです。そういうおかげを頂いて、そういう教えを頂いて、そういう拝み方をさせて頂いてそういう信心、有難い尊い信心生活が出来るのですから。お礼参りをさせて頂かなければおられないという信心。
 その三つのどれが一つ欠けても駄目だという事。もういっちょぐらいよかよか、と言う訳にはいかんのです。先ほども御祈念前に、私お届けさせて頂いたんですけれども。そこの合楽の田中さんが、大学時代のお友達を、今日お導きして参ってきている。ほう珍しいお方が見えとるから、どちらからですかち言うたら、名古屋ち言わっしゃった。ほう名古屋からですかち、はい名古屋でございますち言われる。ほぅち言いよったら。私が耳が遠かもんじゃけん。名古屋じゃなくてからね船小屋じゃったごたる。
 ふがいっちょもうよかよか、ふがいっちょじゃけんでち言うわけにはいかんでしょうが。ふばいっちょ、間違えとるだけで、名古屋になったり、船小屋になったりするとですから。本当ですよ。信心もねもう仏法僧の、仏だけは家で一生懸命拝みよるけんで。いやもう、法だけは親先生から、そうにゃ聞いとるからと言うだけではいけない。ここじゃ柏手いっちょぽんぽん叩いてから、はぁて拝みなさる人がありますよ。もうそれが出来たら、良いと言う事じゃないて。この仏法僧が三宝に当たるのだ。
 成程三宝様踏むと目がつぶれると仰るがです。教祖の神様も矢張り当時、矢張り仏様も拝まれ、神様も拝んでおられた時代なのですから。仏教用語が御教えの中に飛び出して来る事も、是は当たり前の事だと思う。例えば無常の風が時を嫌うとか、嫌わないとかと言った様な言葉も、仏教から出てきた言葉なんです。ですから矢張りあれだけ、ご信心好きのお方であるのですから。三宝様位の事はご承知であったに違いはない。仏教の三宝の仏法僧のお話ぐらい聞いておられたに違いはない。
 成程仏法様、所謂、仏、法、僧、是を一つでも欠いたら、もう目はつぶれると言う事は、折角心の目が開きかかっておる、その心の目が開きかかっておるのが、つぶれてしまうぞと言う事なんです。人から先生と言われる様になると、頭を下げる事を忘れる。その御理解の続きですよ。いうなら慢心。自分では慢心とは気がつかんなりに、その仏法僧の、どれかを疎かにしておる所から、何時の間にかもう自分は出来ておるもののように思うて来るようになる。
 信心はねただ一生懸命お参りすると言う事が、能ではない。一生懸命話を聞くだけが能でもない。私は本当に今まで気が付かなかった。あれもおかげ是もおかげと言うおかげを、いうならば痛い痒いが治ったから、この事ばお願いしとったら、こんなにおかげを頂いたから、有り難いのではない。何時もまめなのが有り難いという。今まで気が付かなかったところにです。有り難いというものを発見させてもらう。分らせて貰うてその事に対するお礼だけでもです。
 お礼参拝がさせて貰わなければ、おられないと言う信心。そういう信心が欠けたら一つ欠けても、船小屋が名古屋になってしまうわけです。方角が違うてくるです全然。北野の中村さんがよくお話になります。いわゆるあの親鸞聖人様と、美代吉つぁんの話もやっぱそうです。来る日も来る日も、聖人様のお話を頂きに来る。それでそんなにただ参る参るではです。却っておかげをすとっと落としてしまうぞと。うちで少しは御用をさせてもらわにゃと言う意味の事を言われた。
 そん時に美代吉つぁんが言われた事はです。「落ちるこの身も十八貫の、うちと思えば危なげはない」とお答えしたと。例えばそれが地獄道であってもです。それを落ちる所はどこであってもです。そこも阿弥陀如来様の懐の中だと、悟らせて頂いておれば危なげはございませんと仰った。そこで親鸞聖人様が仰った。もうそれほどしの悟りを開いておるなら尚更の事、毎日繁々と参って来る事は要らんぞと言われた。
 そしたら聖人様に対して美代吉つぁんがこのようにして、毎日人が助かる事の為に、来る日も来る日もいうならば、こういうお話をして下さっておられる、私共の為にいうならば、お取次ぎをして下さっておられる、聖人様の事を思うたら、家にじっとはしておられませんと答えたという話である。これなんです。是が仏法僧が足ろうた信心だと私は思うのです。ですからそういうです、私はお礼参りの信心。
 そういうやむにやまれん、お礼参りの信心が出来るほどしの信心を、お互いの目指しとさせて貰うてです。おかげを頂かなければならない。その過程においてです。只今申しました仏法僧の、どれが欠けてもならない。それが希薄になったり無くなったり、又は思い違いをさせて頂いたりしてです。信心をおかげをすとっと落とすような事があってはならない。成程落とした、そこの世界もやはり、親神様の懐だと悟っておれば、まだ良いです。けれどもそこに、すとっと落としてからです。
 是だけ信心するのに、こんな事になったと言うて、信心が動揺する様な事の信心では、愈々もってつまらない。私はもう一つ間違えてはならない事はです。いうならば是は一つぐらいは、違ってもよかよかと。例えば全ての事がね、完璧というほどに、覚えてしまわんならんという事じゃないです。けれども信心させて頂いておってですね。私共の信心の、位と言うものが一段一段、高められていかなければならないと言う事。
 言うならば小学校、何時までも小学校じゃいけない。中学校そして高校、大学と言う様にです。もう限りなく高められていく信心を目指さなければならない。その目指さなければならない時にです。必ずお試しがある試験があると言う事です。八十点までは合格点だと、例えば定めてあるとするなら、もう七十九点じゃけん一点位の事は良かじゃんのち言うわけにゃいかんのです。
 ですから私共がです、どのような場合でも、そらよろよろしながらでもです。しながらでも私はそこが、合格が出来れる所までは、一つ行かなければもう一点ぐらいじゃから、負けて下さいという訳にはいかんのです。これは例えば大学なら大学の試験でも同じです。たった一点の差で落第でしょうが、惜しいでしょう。ですから私共が何時も、只今申します仏法僧と言うかね。その三宝様を大事にするという信心を、何時も心の中に掛けさせて頂いておけば、どういうお試しを頂いてもです。
 驚く事もいらなければ、どういう難しい問題が出てもです。只それを合掌して受けて行くという生き方だけしか身に着いてこない。そこに例えば本当には分かっていなくてもです。言うならば中学であるなら、高校こうこうであるなら大学という風に、高められていく信心を目指さなければいけません。もうこの位分かったらよかよかと言う様な事じゃ決していかんです。もう限りない信心の精進が望まれるのは限りない光。限りない力。限りない御神徳を身に受けていくと言う事を楽しみに、信心しなければならない。
 信心をさせておるのですけれども信心をやはり、頂いていくというおかげを頂いて貰いたい。そして愈々の時にです。見事にそこん所が通り抜けられるだけの力の準備。是はもう不思議な事です。一生懸命に打ち込んでおる時ならね、もう大抵の事はもう全然問題じゃないと言う事で、どんどん通っていけれるんですけれども。ちょっと信心が疎かになっておりますとね。もう人情のほうが強うなって、そして今朝の御理解じゃないですけれども。例えば昨日の御理解でしたかね。子を産むのにです。
 よかりものによかるより、神に心を任せて、快かれというあぁ言う事になってこない。直ぐ人によかる。物に頼ろうとする。良いものが生みなされようとする前には、必ず本当によからなければおられない様な事にもなるのだけれども。そういう時にぐっと生神金光大神様、これは昨日の朝の御理解でしたですね。と例えば神様一心に縋って、もう任せていうならば身も心もですか、神様に任せておかげを頂いていく。
 任せるということは、死んでもままよという様な心で任せる。そこに十分の徳が受けられると仰るのですから。そういう、十分の徳が受けられる時にです。そういうチャンスに恵まれておりながら、そこで落第したんでは、何時まで経っても、力もお徳も頂けないことになるのですから。私共は、金光様のご信心は、どこまでも一つ、お徳を頂くことの喜びを、楽しみをもって、信心させて貰わなきゃならんと思うのです。
   どうぞ。